「メンヘラ」がアイデンティティであるということ
精神疾患、俗に言う「メンヘラ」であることをアイデンティティとしている人が世の中には一定数いる。
リスカをしたとか薬を飲んだとか、現実にしろネットの世界にしろ、とにかくそういう話題で生きている人たち。
私だって例外じゃない。何しろペンネームがめんへら子である。ド直球ド真ん中を行くネーミングだ。藤原球児もびっくりのストレートじゃない?
で、このようにメンヘラであることを(言い方は悪いけど)一種の芸としている人たちは、どうにも忌み嫌われることが多いようだ。
特にネット上においてはメンヘラ批判が甚だしい。
Googleの検索窓に「メンヘラ」と打ち込んでみなさい、Google先生が「もしかして:『メンヘラ うざい』『メンヘラ 嫌い』」挙句には「それとも『メンヘラ 死ね』だったりしますか?」なんて尋ねてくる。
まあメンヘラがどうして嫌われるのかという議論はまた次の機会(あるかどうか分かんないけど)にするとして、何で私たちはこうしたメンヘラ嫌いの風潮を理解していながら、それでもなおネット上でメンヘラをアピールし、或いは仲間と傷を舐め合い、或いはリスカしたと叫んでしまうのだろうか。
そしてネットでの散々な言われようを見て落胆し、「やっぱ自分なんて存在しちゃいけなかったんだ」って肩を落とすんだよね。
多分私のお仲間さんだったらこの感覚分かると思う。
いやでもこれ、この行動ね、もうね、馬鹿じゃないかと。だったら今すぐツイッターのメンヘラ垢消して、メンヘラブログ閉鎖して、mixiのメンヘラコミュから脱退しろと。私はいつもそう思う。
だがしかし、SNSというものをはじめてからこの3年間、私は垢消しに成功したためしがないのだ。そしてもちろん、メンヘラキャラを卒業できていない。
一体なんでだろ。
そういえば以前ネットサーフィンしてた時に、掲示板だったかブログだったか定かじゃないけどこんな記述を見かけた。
「メンヘラって何で自分がメンヘラであることを堂々と公言できるんだろう。だって病気って自慢できることじゃない、むしろ恥ずかしいことなのに。もっとほかにアピールできることあるはずでしょ、料理が得意とか音楽が好きとか」
ざっくりこんな感じのことが書いてあった。なるほどその通りである。
じゃあ何で私は、私たちはメンヘラキャラを卒業できないのか?
私は考えた、そして自分なりに一つの結論を出した。
自分の特徴をメンヘラ以外の部分に見いだせる人だったら最初からメンヘラなんてやってないんだろうなって。
いや、考えるまでもなく当たり前なんだけどね。
そもそも人間って、居場所がないと気が済まない生き物だと思う。
それは物理的な意味での居場所かもしれないし、比喩的な意味でもいいし、心理的な拠り所という意味のそれかもしれない。
アイデンティティも居場所の一つじゃないかな。「自分の心のありか」という意味での居場所。
その居場所には当然、正のエネルギーが溢れてたほうが幸せに決まってる。料理が得意な自分とか音楽が好きな自分とか、そういう「心のありか」は正のエネルギーで満たされた所。
一方私たちはどうだろう。一口にメンヘラといっても、うつ病の自分。不安障害の自分。双極性障害の自分。いろんな自分がいる。
しかし共通しているところは、自分の居場所が負の位置にあるということ。
つまり、病んでいるから負の場所に身を置く(というか、そうせざるを得ない)。
そして、それ故に病む、それ故にメンヘラとなる、その繰り返し。
この居場所を取られたら、アイデンティティが無くなってしまう。これって結構大事なことで、アイデンティティがない人間なんて実質生きる屍みたいなものだ。
だから――、批判されても嫌われても死ねと言われても、私たちはメンヘラをやめない、やめられない。
だけど、少しずつでも正の場所に近付いていけたらいいなって思う。少しずつだけどね、進んでいくことができたら回復も劇的に近くなるだろうから。
まあこれがなかなか難しいことなんだけれど、気負わず背負わず楽に生きよう。
日々是好日、って言うしね。
おわり。