めんへら子的「日々是躁鬱」

思いつくまま、さくさく言葉を走らせる。

人間の生の意味ってなんだろう

1ヶ月ほど前に、人間は孤独である瞬間こそが自分が自分たる瞬間であり
その究極の形は死だと思うみたいなことを書いたわけだけども
言ってみればこれは「社会の中の自分」としての究極完全体(こんな言葉あるのか?)であって、心理的な発達の最終課題はまた別のところにあると思うんだな。

私は、「自分がこの広大な世界の中でいかに矮小な存在であるかを理解し、その上で自分自身に価値を見出すこと」が、人生の目標だと思ってる。


じゃあ、自分が矮小な存在であることってどうやって理解するんだろう?

ある人は、他人との密接な関わりの中でそれを理解するかもしれないし
またある人は、芸術という限りない自己表現の中でそれを理解するのかもしれない。
もともと勉強好きだった私の場合は、学びの中で、自分の存在の小ささを理解するんだろうなとなんとなく思ってる。

でもね、絶対に、生きているうちに完全に己の矮小さを理解することはできないと思うの。
だって人間は元来、傲慢な生き物だから。どこかに、自分は立派だと思いたい気持ちがあるから。

でもそれでいいのだとも思う。人間は究極完全体(だからなんだ、この単語は)である必要はないし、完全体の人間にはもはや人間としての価値はない。
古来から日本でも、完成の一歩手前の形にこそ本当の美があるみたいな考え方があったわけだし。


うぅむ。また今回も我ながら意味不明になってしまったな。
でもこのブログは半分私の備忘録な訳だし、まあいいか。

読んでくれた皆さん、とりとめのない文章でごめんね。てへっ

おしまい。