めんへら子的「日々是躁鬱」

思いつくまま、さくさく言葉を走らせる。

スマホばっかりいじりやがって!その2

前回の記事は、別に電車とかカフェとかでみんながスマホ触ってるのは別におかしいことじゃないんじゃない?という内容だった。確か。

でもスマホ、というよりインターネットが気軽にどこでも利用できることには、問題はいっぱいあると思うんだ。
便利は便利に違いないけど、人間の大事な何かを奪ってるような気がするの。

そのひとつは、電子機器の向こうに生身の人間がいるということを感じにくくなること、そして自分自身もまたネット上では生身の人間ではなく只のコンテンツとして振る舞おうとする点にあるんでないかな。

画面の向こうで誰かが発した言葉を、ただ文字の羅列から得られる視覚的な情報としてしか処理出来なくなるというか。人間関係に薄っぺらさが生じるというか。そんな感じ。
人格が一旦バラバラになって、フォントの揃った無機質な文字として最形成されてしまうから、相手の輪郭をつかみにくくなるんだと思う。
そして利用してる自分自身も、ネットの世界では人間ではなくひとつのメディアと化してしまう。これはまったく、よろしくない。まあこれは私の仮説でしかないから反論絶賛募集中ですが…。


そうそう、あと社会的な問題になってるのはネット中毒ね。
どこで見たか忘れたけど、とある研究の話。
イギリスだったかフランスだったか、とにかく欧米のどっかの国の男性たちに大勢に聞いた。1年間SNSを利用できないのと1年間セックスできないの、どっちが苦痛ですかって。
半数以上がSNSが利用できないのが苦痛だと答えたらしい。

なんということでしょう!(ビフォーアフター風)
SNS欲は性欲を超えるらしい。
韓国のネットカフェでは睡眠も食事も忘れてゲームに没頭して倒れた人がいたくらいだし、一体人間は生物としてどこへ向かおうとしているのか、私は大変恐ろしい。


てか、私はソース出すのが苦手よね。
SNSorセックスの話も、リンク貼れないし。どこに書いてあった記事か忘れちゃったの。これじゃあこのブログの信憑性は薄すぎだ。
でもたぶんライブドアニュースあたりだったと思うから、興味のある方は調べてみて欲しいな。


おわり。

スマホばっかりいじりやがって!

表題は近頃の若者についてである。
いやお前も近頃のスマホポチポチ野郎じゃないかって?
ごもっともです、ごめんなさい。
しかし今日は、この問題について書いてみようと思う。

街中には、スマホをいじる人間が溢れてる。
電車でもスマホ、バスでもスマホ、喫茶店でもスマホ、どこかしこもスマホ人間だらけだ。
一部の人は、これを異常な光景と評する。

私もそう感じる。
一体この社会はどこへ向かっていくのだろう、情報化の流れはどこまで進めば気が済むのだろう、だれか止めようとはしないのだろうかと、スマホをぽちぽちしながら考えている。

しかし、である。
スマホをいじる人間が増えたからと言って、それは本当に問題なのだろうか?
問題でないとしたら、私達は一体どこに危機感を感じているのだろうか。
(駅のホームでスマホに夢中になってて電車にドカーンとかブルーライトで不眠、みたいな物理的な意味での問題は考えないこととする。)

だってひと昔の電車内だって、本を読んでる人とかウォークマンで音楽を聴いてる人とか新聞読んでる人とかでいっぱいだったんでしょ。
現代はその役割が全てスマホに移っているだけで、人々がやっていることは根本的に変わらないのかもしれない。

じゃあなぜ?
じゃあなぜ、私たちは人々の「スマホ人間」化を問題としたがるのだろう?

冷静になって考えると、スマホを頻繁に利用することがそんなに悪いとも思えないのだ。さっきも書いたけど、昔の人とやってることはおなじ、ただスマホという機器を手に入れただけの話。でしょ?

…うーん。
……うーん。
………うーん。


これは仮説なんだけど、スマホの何が問題かなんて、脳科学者とかならともかく、そのへんで「最近の若者は!!」とプンプン怒ってるおばちゃんには答えられないと思うの。
なのに何となくスマホはいけないものな感じがする。

それって、全員が(一見)同じ行動をしていることに対する一種の本能的な嫌悪感みたいな物じゃないのかなって。

ニュース読んでる人も音楽聴いてる人もヌード写真見てる人も(!?)傍から見れば全員同じ格好で同じ行動をとっているだけ。きっとこれ、この光景が人々に不安感を与えているだけなんだろうな。


だから皆さん!スマホは別に悪いものじゃないのよ!
もっと堂々と積極的にぽちぽちしていこうね!(あれ?今回の記事ってこんな趣旨だっけ……)


まあともかく、私はスマホの利用を控えようと思います。
その理由、スマホやインターネットの真の害についてはまた次回。

終わり。

エビリファイの副作用

メンヘラの大正義エビリファイ。効き目が素晴らしい向精神薬だが、定期的に飲むようになってから副作用が出はじめてしまった。
私はこの薬のおかげでいろんなこと(たとえば、このブログとか)を始める元気が出てきたというのに、全く困った話である。
どうして私はこう、ついてないんだろ。

私の場合の副作用は、手の指がつったように反り返って震えて作業が出来なくなるというものである。
現に今、ここまで文章を書くのにゆうに30分はかかってる。
絵もかけない字もかけない、パソコンもスマホも操作できないとなるととても不便だ。一日中いらいらしちゃう。

でもこういうとき、体が健康であることのありがたさをひしひしと感じる。
躁鬱持ちだから心が健康とはいいにくいかもしれないけど、体が元気なだけでもほんとに感謝すべきことだよね。

当たり前のことを当たり前と思わず、感謝する気持ちを持って生活できたら心ももう少し豊かになるのだろう。
当たり前だけど難しいこと。

日々の生活に感謝しながら生きていきたいなって、ぼんやり思う1日だった。


おわり。

アスペルガーという事実

躁鬱ばかり全面に押し出している私だけど、実は広汎性発達障害――アスペルガー症候群でもある。ネットで俗に「アスペ」と呼ばれているアレだ。

空気が読めなくて頑固者で不器用で同時に2つのことをこなせなくて人の気持ちに共感するのが苦手などなど、とにかく厄介な点は挙げたらキリがない。

ぶっちゃけ私自身、自分みたいな奴が近くにいたら邪魔で仕方ないだろうなあと思ってたりする。いや、これ割と本当に。

 

そんなわけで診断されたときは、それはそれはショックだった。小学校でいじめられたり両親に酷いことを言われたり(それで16歳の時から家族と別居してたりするんだけどまあその話は追々)、嫌な思い出は数え切れないくらいたくさんあるんだけど、それは全部自分が原因だったのだ。

今までみんなみんな、周りがおかしいんだと思ってた。

でも本当に「おかしかった」のは自分。

目の前が真っ暗になった気がした。

 

診断されてしばらくは気が動転していて、かつての友人や恩師に謝罪のメールを入れて回った。アスペでごめんなさい迷惑かけてごめんなさい。そんな内容を延々と書いてた気がする。

今考えるとれっきとした奇行である。皆も宥めてくれたけど、それでも気が済まず数日は涙で枕を濡らして寝てたなあ。

 

で、それからしばらくして私はネットで自分のこと――アスペルガーについて調べるようになった。新しい環境に適応するのが苦手で曖昧なことを理解できない。こだわりが強くて対人関係に支障をきたすこともある。

そんな内容の検索結果の中に、気になるが言葉が幾つか。

 

「アスペは害悪、死ね」「発達障害は皆殺しにすべき」「犯罪者予備軍アスペルガー

 

皆さんお分かりかもしれないが、匿名掲示板の某ちゃんねるにあった書き込みである。いいわれもない暴言の嵐がそこでは吹き荒れていた。

これを見たときは悲しかったなあ。

私だって好きでアスペに生まれたわけじゃないんだよね。何でそんなことで見ず知らずの人に死ねと言われなきゃいけないのさ(だいたい完全匿名というのはデメリットが多すぎるし、閲覧するのも精神衛生上良くないことだと思う。しかし某ちゃんねる批判を書き出すと長くなるからまた今度にする)。

 

あと、誤解もひどい。

今日のメインテーマはアスペルガーに関する誤解について、にしよう。

ここにくるまでの導入が長すぎたけどね。反省。

 

まずアスペは人の感情を理解しないとよく言われる。酷いと、それだから犯罪を起こすのだとまで書かれたりする。

私に言わせればそんなの嘘っぱちだ。

確かに他人に共感するのは苦手だ。でも感情を理解しないなんてはずがない。私にだって喜怒哀楽の感情はあるし、他人が悲しんでいたら一緒に悲しみ、喜んでいたら一緒に喜ぶことくらいできる。

 

で、上に書いたアスペは犯罪を犯しやすいという話。これも間違いだろうね。

犯罪者がたまたまアスペルガーだったとか、そういうことはいくらでもあるだろう。しかしアスペルガーそのものが犯罪の原因になるとは私は考えにくいと思ってる。

アスペって頭が固くて頑固だから、基本的に法律を遵守するはずだし。

ただ考えられるのは、私みたいにアスペルガーが原因でいじめられた人が、復讐のために人を殺してしまうとかかな……殺人はどんな理由があれ許されないけど、こういう悲しい事件は起こりうるかも。

 

あと、アスペは嘘つき。これも多分違う。

私も自覚があるんだけど、曖昧なことが苦手だから、答えがいくつかある質問をされると適当に答えちゃうの。数学とかはいいんだけどね。

例えば、東方で好きなキャラは誰?って聞かれたとき、霊夢うどんげが好きな私は、あるときは「うどんげ!」またあるときは「霊夢!」って答えて、「こいつ嘘つきだな」って思われちゃうみたい。

まあ東方だったらどうでもいいんだけど、仕事のことなんかになると大変よね。自分でも意識してるんだけどなかなかこれって難しい。訓練するしかないのかな?

 

 

他にもいろいろ言いたいことはあるんだけど、長くなっちゃうからここまでで。

どうやらエビリファイの副作用で、手の指がつってキーボードうまく打てないしね。

まとまりのない文だけど読んでくれてありがとう。

理解者が増えてくれたらいいなって思う。

 

 

おわり。

文章を書くのって、どうしてこんなに楽しいんだろう

エッセイって楽しい。

最近めっきり文章を書くことから離れていたけれど、はてなブログを初めて再び筆を取る楽しさを知った(筆というか、叩いてるのはキーボードだけどね)。

 

日本におけるエッセイの源流って、記憶に間違いがなければ枕草子だったはずだ。かの有名な「春はあけぼの」という句から始まって次々と綴られていく言葉たちからは、さらさら音を立てて流れゆく小川のせせらぎみたいな、何とも言えない心地よさを感じる。

ところで枕草子といえば先の「春はあけぼの」に始まる第一段が有名だけれど、私は百二段の「中納言参りたまひて」が一番好きだったりする。人間臭くてとても面白いから。

 

そんな私、じつは中学生くらいのころ、国語の授業の題材(タイトルは忘れてしまった)に感化されて一時期エッセイを書くのにはまっていたんだけど、枕草子みたいに言葉を綺麗に紡げた試しがない。

なんせ私は不器用なのだ。編み物をしても糸をこんがらがらせてしまうし、私に縫い物などさせようものなら指のあちこちから流血沙汰だ。まあそういう手先の器用さと文章の上手さに相関関係があるかは知らないけど、私は一種の繋がりみたいなものがあると思う。

私は丁寧さに欠ける性格をしているから、糸も言葉もこんがらがっちゃう。

 

話がそれてしまった。

私の場合は下手の横好きではあるが、エッセイを書く行為の楽しさについては吉田兼好が述べてくださっている。思うがままに文を書いているうちに、自分の気持ちよりも筆の方が先走っていくような感覚に襲われる、これがまたとても不思議でいて気持ちがいいのだ。

 

自分は三日坊主だから新しいことを始めてもだいたい続かないし、そのため何かにチャレンジするというのがすごく億劫なんだけれど、ブログはやっぱり始めてよかったなって思う。

でなきゃこの気持ちいい感覚、忘れちゃってただろうからね。

 

明日も、とりとめのないことを思いつくままに書いて投稿するとしようかな。

 

 

おわり。