めんへら子的「日々是躁鬱」

思いつくまま、さくさく言葉を走らせる。

勉強はまさに、私の生き甲斐だった

私はこう見えても(どう見えても?)実は根っからの勉強好きだった。
そんなわけで、まだ健康だった中学の頃に受けた模試では、だいたい偏差値70後半から偏差値80、一番高い時で89なんてのもあった。
志望大学は東大か京大、そう決めていた。

けど、人生ってなかなか上手くいかないもので、高校に半年通った時点で躁鬱を発症。
以後閉鎖病棟で数ヶ月暮らしたり、医師の勧めで家族と別居したり、生活費を稼ぐためバイトに追われたり、躁転してお巡りさんに注意されるようなことをしでかしたり、あるいはうつ状態に陥って自殺を図ったりと、とにかく紆余曲折を経て現在に至る。

当然その間は勉強なんてできるはずもなくて、一時期はあんなに好きだった勉強も「病気があっては何もできない!」と諦め、参考書を捨ててしまった。
しかし……今。19にして高校に入学すると、心の中にまたふつふつと夢が湧き上がる。

東大合格。

一時は忘れていたこの夢を、この頃再び抱き始めた。

一人暮らしでお金もないことだし、予備校には通えない。というかお金があったとしても、躁鬱持ちSAD持ちアスペ持ちでは、予備校なんて苦痛で行けたもんじゃない。

でもね、やってみせると、心の中でそう思っている。
別に躁状態ではないはずだ。だけど、自分ならできると信じたい。いや、信じてる。

そんな思いを抱きながら、今日も少しずつ、無理のない範囲で参考書を開いている。

いつか東大に受かったら祝ってやってください。


おわり。

クラウドソーシングで生活してみた

ネット副業というと怪しい感満載だけど、アスペで躁鬱な私はバイトをやっても失敗ばかり。
自分自身のストレスもたまるし、これ以上バイトするわけにも行かないと思ってネットで稼ぐことにした。

で、結果としては、月に安定して6万から7万稼げている。
金額としては心もとないけれど、バイト時代の貯金を切り崩して節約しながら生活すればまあやっていけなくもないかな、という印象。
そんなわけで、私みたいに精神病でなかなか仕事ができない…と悩んでいる方には、ネットで在宅ワークをすることをおすすめする。
これなら自分の体調のいい時だけ働けばいいし、プレッシャーも少ない。
私みたいな躁鬱の人間は特に、元気なうちにうつ状態の時に備えて稼いでおくことができるから便利だと思うな。

で、是非ともサイト名とURLを貼っておすすめしたいところだけど、あんまり宣伝みたいなことを書くとステマと思われても仕方ないから、具体的なことは書かないでおく。
ただヒントとして、「クラウドソーシング」を利用して「ライティング」で稼いでいるということだけ書こうかな。
でも、詳しく知りたい方がいればもちろんお伝えしますよ。

ライティングで稼ぐコツは、このようなサイトに複数登録しておくこと。
「○○についての記事を書いてください!」と常にいろんな依頼があるわけだけど、その○○が自分に書けるテーマとは限らない。
私はファッションと美容のことを書くのが得意なんだけど、ひとつのサイトにしか登録していないとかける記事数がどうしても少なくなってしまう。
だから5つくらいのサイトに登録して、高額の依頼や書きやすい案件がないか毎日チェックしてるかな。

最初は時給に換算して300円くらいしか稼げなかったけど、今は10分で150円くらい稼げるようになってきた。
何事も慣れだなって思う。

これから大学にいっても、ネット副業で稼いで生活費にしていきたいな。もう接客業はこりごりだ。


おしまい。

人間の生の意味ってなんだろう

1ヶ月ほど前に、人間は孤独である瞬間こそが自分が自分たる瞬間であり
その究極の形は死だと思うみたいなことを書いたわけだけども
言ってみればこれは「社会の中の自分」としての究極完全体(こんな言葉あるのか?)であって、心理的な発達の最終課題はまた別のところにあると思うんだな。

私は、「自分がこの広大な世界の中でいかに矮小な存在であるかを理解し、その上で自分自身に価値を見出すこと」が、人生の目標だと思ってる。


じゃあ、自分が矮小な存在であることってどうやって理解するんだろう?

ある人は、他人との密接な関わりの中でそれを理解するかもしれないし
またある人は、芸術という限りない自己表現の中でそれを理解するのかもしれない。
もともと勉強好きだった私の場合は、学びの中で、自分の存在の小ささを理解するんだろうなとなんとなく思ってる。

でもね、絶対に、生きているうちに完全に己の矮小さを理解することはできないと思うの。
だって人間は元来、傲慢な生き物だから。どこかに、自分は立派だと思いたい気持ちがあるから。

でもそれでいいのだとも思う。人間は究極完全体(だからなんだ、この単語は)である必要はないし、完全体の人間にはもはや人間としての価値はない。
古来から日本でも、完成の一歩手前の形にこそ本当の美があるみたいな考え方があったわけだし。


うぅむ。また今回も我ながら意味不明になってしまったな。
でもこのブログは半分私の備忘録な訳だし、まあいいか。

読んでくれた皆さん、とりとめのない文章でごめんね。てへっ

おしまい。

三日坊主とは誰のこと?

三日坊主とは私のためにある言葉だと、まさにそう感じる。
1か月ほど前だったか、はてなブログをやろうと意気込んで毎日のように更新してたはいいけどすぐに飽きてしまった。
これだから私という人間は。

そういえば最近、私はアスペルガーだけでなくADHDもあることが分かったんだけど三日坊主と何か関係があるのだろうか。
って、何でもかんでも病気やら障害やらのせいにするのはよくないんだけどね。

私は飽き性な分、色んなことに次々と興味を持つ。
趣味でいえば、お絵かき、キーボード、ギター、料理、お菓子作り、編み物、読書、アニメ、ネイル、などなど。
しかも例えばお絵かきと一口に言っても、漫画みたいなイラストから水彩画まで何でも興味がある。読書だってラノベから純文学まで、音楽もボカロからクラシックまで。
というか、特に「嫌い」というものがないのだ。

まあ一応書いておきたいんだけど、私の場合「好き≠得意」なので絵が好きと言ってもけして上手くはないんだよね。
上手くなる前に飽きちゃうから当たり前だ。

知り合いの中には、たくさんのことに興味を持つのはいいことだと言ってくれる人がいるけどどうだろう。私としては、本当は一つのことを極めたいんだけどな……なかなか難しいみたい。
根気よく一つのことに熱中するにはどうすればいいか、知ってる人いたら教えてください。


おしまい。

死ぬときはなぜ一人なのか

死ぬときはなぜ一人なのか、と考えたことがある。
人は生まれるとき、命を作るとき、いつも好きな人と二人でいる。
生まれるときはママとつながっているし、命を作るときは愛する人とつながってる。(下ネタじゃないよ!!)

でも死ぬときは一人きりだ。
傍に家族がいても一人は一人。
一緒に繋がりながら死んでくれる人なんていない。
生まれるときも命を作るときもいつも誰かと繋がってるのに、世界の最後は一人きり。

寂しいことじゃない?

でも、だからこそ死って、なんていうか、長年生きてきた人間の究極完全体なんだと思ったりするの。
よく親離れだの子離れだの自立だのいうけれど、死はそういう次元を超えている。
命離れだ。世界離れだ。

そう。最強の自立である。

死こそが、自分が自分たる最大の瞬間なのではなかろうか?

…まあそうは言っても、私とて自殺するつもりはないけどね。
ただ、今日は思ったことを書いただけ。
意味不明な内容になりました。


おわり。